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水戸地方裁判所土浦支部 昭和39年(わ)47号 判決 1966年12月24日

被告人 冨山高幸こと冨山常喜

主文

被告人を死刑に処する。

押収に係る重田義信作成名義の自由満期災害倍増保険契約申込書一通(昭和三九年押第七号の九)及び同じく菅野清一作成名義の毎期精算配当付自由保険申込書一通(昭和三九年押第七号の一二)は、夫々偽造部分につきこれを没収する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、茨城県那珂湊市釈迦町五、七一九番地の本籍地において車大工を営み普通の暮らしをしていた亡父寛三郎の長男として生まれ、同地の那珂湊尋常高等小学校高等科二年を卒業後、二〇才頃まで家業の手伝をしこれに関連して鍛治の仕事をもした上、昭和一三年頃から同一六年六月頃まで水戸飛行学校の電気工員を勤め、これより直ぐ臨時召集を受けて朝鮮咸興第七四聯隊に入隊し、国境警備に当り、陸軍軍曹に進み、終戦当時ソ聯の捕虜となつて、シベリヤに抑留され、昭和二四年一二月に日本に引揚げ、爾来本籍地の父母の家に住み、弟正が営んでいた箱屋(魚類や野菜を入れる木箱の販売)を手伝つたり、ラジオの修理業を営んだりしていたが、主として弟正と共同で箱屋をやるようになり、その商売のため昭和三〇年頃より茨城県鹿島郡波崎町及びその対岸の千葉県銚子市に往来を始め、波崎町の「おくら屋」という飲食店に出入するうち、同店の女中石津むめと懇ろの仲となり、昭和三一年一一月末頃から波崎町八、七四七番地ノ一の借家で同女と同棲を始め、同女は女中をやめて暫らく生命保険の外交員をやり、そこで内縁の夫婦生活を営むに至つたのであるが、被告人は、屡々博打をなし、博徒の開張する賭場にも出入し、箱屋の商売も余りうまく行かず、相当借金がかさんで来たところ、昭和三七年一一月頃、被告人が資金を工面して、むめの先夫との間に生れた娘、石津明美に波崎町別所で美容院を開業させ、石津むめを会計等の仕事に当らせ、顧客送迎用に乗用自動車一台を購入し、一時は運転手をも雇い、更に自宅には相当派手な電気器具等を買い入れ、それ等のため尚多額の借金を重ねて行き、そこで不動産売買の仲介等もやり始めたのであるが、世間では一般に被告人一家を「箱屋」と呼び、被告人から注文を受けて商品を納めたり、仕事を請負つたり、その他取引交際した人達の間からは、被告人は、人間が悪賢く、気性も凶暴であると悪く評判されるようになつたが、尚も、背徳を意とせず、徒らに物欲に走り、これに焦慮していたところ、

第一、被告人の内妻石津むめには、同女が娘時代色々世話になつたことのある、石橋熊五郎とその妻トメという老夫婦が在り、而も熊五郎とは血縁の叔父姪の間柄であり、この老夫婦は、元ハワイから帰国した者で、同じ波崎町大字荒波四、六九七番地で農業を営み、夫婦二人だけの淋しい暮らしをしているのであるが、むめは先夫が戦死して以来同家と殆んど往来をせず、又被告人も同家には出入せず、明美だけが時々被告人の水戸あたりから持ち帰つた土産品をむめに命ぜられて持つて行く程度の細々とした付き合いを僅かに保つていたに過ぎなかつたところ、いずれも右老夫婦の全く知らない間に、主として、むめが単独或は被告人と相談の上、(1) 昭和三一年一〇月二七日契約者石津むめ、被保険者石橋熊五郎、保険金受取人石津むめ、保険金額五万円、(2) 昭和三二年一一月一九日、契約者前同人、被保険者前同人、保険金受取人前同人、保険金額十万円、(3) 昭和三二年一一月一九日、契約者前同人、被保険者前同人、保険金受取人前同人、保険金額五万円、(4) 昭和三三年一月一三日、契約者冨山常喜(被告人)、被保険者前同人、保険金受取人石津明美、保険金額二十万円、(5) 昭和三三年二月二八日、契約者石津むめ、被保険者石橋トメ、保険金受取人石津むめ、保険金額二十万円の口数合計五口、保険金額合計六十万円の終身簡易生命保険を締結してあり、被告人もこのことを十分知悉して居つたところ、石橋トメが明美の持つて行つた土産品を突き返したり、むめが被告人と一緒では明美等子供の行末も案じられるとか、二人を別れさせるとか、屡々被告人の悪口を言つていることを聞知して、これに憤慨し、いつそ石橋熊五郎夫婦を殺害すれば、合計六十万円の生命保険金も取得できるし、自分達夫婦生活に水を差す邪魔者もなくして仕舞えるものと考え、右老夫婦殺害の意を決して、昭和三四年六月三日午後八時三〇分頃から九時頃までの間、前記石橋熊五郎方居宅の勝手口から屋内に忍び入り、廊下づたいに奥の寝室の方に向かい忍び足で行くところへ、折柄石橋トメ(当時五九才)が隣家より貰い風呂をして帰宅し、勝手口から台所に入つて来たのを認めるや、取つて返して同女に対し、「この婆くたばれ」「俺のことをなんだかんだ云つている」等と怒鳴りながら、同女の頭部をめがけ、所携の棍棒を振つて数回乱打し、更にこの騒ぎを聞きつけ、同所に奥の寝室から駈けつけて来た石橋熊五郎(当時六五才)に対しても、同様棍棒をもつて同人の頭部胸部等を数回乱打したが、却つて昔相撲取りをやつたこともある熊五郎のためにあやうく逮捕されそうになり辛じて勝手口から屋外に逃げ出し、更に同家前の道路端でも熊五郎から取り押えられそうになつたのを、漸くこれを脱して逃げ去つたのであるが、その際、熊五郎に対しては、全治約二週間を要する頭部、顔面、左胸部、腰部各挫傷、トメに対しては、全治約二週間を要する頭部割創、右手掌、右環指各挫傷の傷害を負わせたに止まり、両名殺害の目的は遂げることができなかつた。

第二、かねてから博徒の開張している賭場において知り合つたり、又魚類を入れる箱を売つたりして親しくしていた、内妻むめの実弟に当る水産加工業重田義信が、酒を飲んではよくオートバイを運転し、そのために一命を失わんとしたことすらもあり、同人に対し多少の貸金を持つていたところからして、同人の承諾がないのに拘らず、同人を契約者兼被保険者とする生命保険をかけて置き、同人が交通事故等の災害に因り死亡した場合には多額の生命保険金を不法に利得しようと考え、昭和三六年一一月一九日頃、水戸市泉町所在東邦生命保険相互会社水戸支社内において、擅に、行使の目的をもつて、情を知らない同会社職員三浦金竜に右の生命保険契約申込手続一切を依頼し、尚同人をして、重田義信の氏名の下に押捺すべき「重田」なる印章を水戸市内において購入せしめ、同会社備付の保険料月払特約付自由満期災害倍増保険契約申込書用紙一通に、保険契約者及び被保険者欄には重田義信、保険金受取人欄には石津むめ、保険金額欄には二百万円等と必要事項を記入せしめ、同会社に対し保険契約者並に被保険者が該保険契約申込の意思を署名捺印して明らかにすべき欄には、夫々順次重田義信と記入させ、その各名下に前記購入せる「重田」なる印章を順次各冒捺せしめ、もつて重田義信作成名義の前記会社に対する右保険契約申込書一通(昭和三九年押第七号の九)を作成偽造し、同年一二月一九日頃、前同所において、同会社支社係員に対し、これを真正に成立したもののように装い提出せしめて行使し、

第三、かねて被告人の弟正が宇都宮市氷室町一、六〇五番地製材業菅野清一に対し、トマト用の木箱を販売し、その代金のうち百万円が未納になつているところから、昭和三七年六月頃弟正よりこれが取立方を依頼され、同年九月頃その半額以上の弁済を受けたが、右菅野清一より代金の支払方法として受取つて置いた額面金三〇万円の約束手形が、若し不渡りになつたり、或は同人が酒好きでありながら自動車を運転するので、前叙の重田義信の場合と同様に、生命保険をかけて置き多額の生命保険金を不法に利得しようと企て、右菅野清一の承諾がないのに拘らず、恰も保険募集の成績に苦心していた住友生命保険相互会社波崎出張所長石田芳松と共謀の上、昭和三七年一〇月初旬頃、鹿島郡波崎町九、五四九番地の同人方において、擅に、行使の目的をもつて、同人が情を知らない同人の養女石田京子をして、同会社の毎期精算配当付自由保険申込書用紙一通に、契約者及び被保険者の欄には菅野清一、保険金受取人の欄には石津むめ、保険金額の欄には百万円、並に、同会社に対し保険契約者及び被保険者が該保険契約申込の意思を署名捺印して明らかにすべき欄には、夫々順次菅野清一と記入させ、その各名下には右芳松が購入して置いた「菅野」なる印章を自ら順次各冒捺し、もつて菅野清一作成名義の前記会社に対する、右保険契約申込書一通(昭和三九年押第七号の一二)を作成偽造し、その頃、右芳松がこれを真正に成立したものの如く装い、千葉県銚子市所在の前記会社銚子支部において、同支部長に提出して行使し、

第四、前記重田義信と同様、被告人が鹿島郡波崎町に移住後、博徒の開張する賭場において、内妻むめの従弟に当たる同郡同町七、四〇四番地農業石橋康雄と知り合い、次第に親しくなり、同人より金を借りたり、同人の借金等の世話をしたり、同人に直接金を貸したり等しているうち、前記第二項記載の重田義信の生命保険がその後被告人において保険料の支払を延滞したため失効となつたところから、かつて重田義信がむめの勧誘により日本生命保険相互会社の保険に加入していたが、保険料不払のため失効となつたのを奇貨として、被告人において保険料を立替え、復活させてやるように装い、昭和三八年四月下旬頃、重田義信を日本生命保険相互会社に連れて行くように装つて、水戸市泉町所在の東邦生命保険相互会社に同伴し、同会社の保険に加入させた際、偶々同人から頼まれ、同人の外被告人をも自己の乗用自動車に乗せて同会社に来合せていた前記石橋康雄に対しても保険に加入するよう勧め、一応同人をして同会社で身体検査を受けさせたところ、その帰途において、元来無免許であり乍ら、乗用自動車を購入運転していた康雄が、自身運転を過つて自動車を転覆させる事故を起したので、被告人の勧誘に応じ、被告人が第一回分の保険料を立替支払い、そして適当な保険金額なら保険に加入してもいい旨を承諾したのを奇貨として、不法に多額の生命保険金を利得することを考え、わざと康雄には保険金額及び保険金受取人については相談せず、同年五月頃、同人を保険契約者及び被保険者とし、満期の場合は被保険者が保険金受取人となり、満期保険金額は二百万円とし、交通事故等に因る災害に基き死亡した場合には保険金額は六百万円とし、その保険金受取人は被告人とする満期自由組立生命保険契約を前記三浦金竜に手続方を依頼して、前記東邦生命保険相互会社との間において締結すべく同会社水戸支社に申込んだところ、同会社の本社が審査した結果、該保険申込は、災害死亡による保険金の受取人が被告人一名となつている点に難点があるとし、同年七月頃、該災害死亡による保険金六百万円の受取人を、保険契約者兼被保険者石橋康雄の妻石橋信子と被告人とが各半額宛の受取人にすることに変更し、該生命保険契約の始期を昭和三八年五月二五日に遡及せしめて契約締結の運びとなり、被告人は前記三浦金竜より右の如き経過の大要を告げられ、不満ではあつたが、尚自己が相当多額の保険金の受取人たることには変りがないので、該生命保険契約を解約せず、石橋康雄が無免許で現に転覆事故まで起して居りながら、依然として自動車の運転を断念しないでいるところからして、同人が自動車を運転中過つて交通事故を起こして死亡した如くに偽装し、その方法として、同人が乗車直前に青酸化合物をカプセルに入れたものを同人に正常な薬品と詐つて服用させるならば、カプセルが溶解するまでには多少の時間を要するところから、同人はその場で即死せず、自動車運転中、間もなくカプセルの溶解と共に、青酸中毒を起こし、苦悶の末死亡し、而も外見上の観察からして、同人が自動車運転中操作を過つて交通事故を起こし、それによつて死亡したものと簡単に処理され、従つて青酸中毒による他殺であることは到底看破されないものと思惟し、爾来密かに短時間内に青酸化合物をカプセルに入れることのできる準備を整え、好機の到来を待つていたところ、偶々同年八月二五目に前掲記の被告人方で、石橋康雄が、同人がかねて他人にオートバイを担保に入れて金を借りていたところ、相手が約束に違反してこれを他人に転売してしまつたとして、大いに憤慨し、その相手と強く争論したため、痛く興奮していたが、金策のため同日午後八時三〇分頃、被告人の車を借りて千葉県八日市場に出かけ、その晩は必ず帰りに被告人方に立寄ることになつていたところからして、被告人は、この機会を利用すれば、かねての計画を実行に移すことができるのではないかと考え、康雄が、被告人方に戻つて来るまでの間において、密かにカプセルに青酸化合物を入れたものを作り、康雄の帰つて来るのを待ち受けていたところ、康雄は同日午後一一時三〇分頃、前記被告人方に戻つて来たのであるが、同人が、翌二六日午前零時一五分頃、被告人方から辞去するに際し、被告人の乗用自動車を借り、同人だけ乗車運転して、前掲記の同人方まで帰えることになつた際、同人が今夜は興奮して眠れない等と云い出したので、将に好機到れりとして、いよいよかねての計画どおり、康雄を毒殺して多額の生命保険金を不法に利得しようと決意し、被告人方土間において、康雄が尚興奮しながら、オートバイのことを被告人に解決してくれるように頼むと云つたりしているのを慰めながら、鎮静剤やこれと同様の効力のあるアスピリンを飲めばよく眠れる等と申し向け、正常な薬品のように装い、その実、青酸化合物を致死量を超えた分量でカプセルに入れたものを、康雄に交付し、これを正常な鎮静剤であると誤信した同人が、即座に右土間に設けられてある水道から水を出して、その水と共に右カプセル入りの青酸化合物を飲み下し、そのまま、直ちに、被告人方前の道路に置いてある同人の乗用自動車を、同人から借り受け、これに単身乗車して真直ぐ帰宅の途についたところ、被告人の期待に反し、その途中では別段の症状も起こさず、真直ぐ無事に、同日午前零時二〇分頃、前記同人の自宅に帰着し、部屋に上つて就寝せんとしたところ、間もなく、青酸中毒の症状を起こし、猛烈な苦悶を始め、漸く同人の妻信子及び近隣の人達の救護を受けて、鹿島郡波崎町八、九六八番地済生会波崎済生病院に運び込まれたのであるが、いくばくもなく、同日午前一時三〇分頃、同病院内において、青酸化合物の中毒によつて死亡し、そこで、被告人のかねての計画どおりの自動車運転中の交通事故に因る死亡と偽装することには失敗したが、ついに右石橋康雄を殺害した

ものである。

(証拠の説明)

第一、判示冒頭事実につき、(証拠略)

第二、判示第一事実(ハワイ屋事件と呼ばれている)につき

判示のとおりの被害事実があつたことは、被告人も弁護人も争わないところであるが、その加害者たる犯人が被告人であることについては、被告人は捜査以来否認し続けているので、後者の点について特に証拠説示を加え、前者については証拠の標目を挙示するに止める。即ち、前者の証拠の標目は、(証拠略)

後者の証拠を説示すると、

(1)  判示摘示の如き犯行の動機目的の在つたことが、次に挙示説明する各証拠の綜合判断によつて明白である。

即ち、(証拠略)の各一通の存在により、判示摘示のとおりの簡易保険契約が締結されていたことが明らかであるのみならず、いずれも犯行日たる昭和三四年六月三日前より保険料の支払が延滞し始め、而も犯行後僅かの間即ち、六月下旬より八月までの間において三月以上保険料不払のため失効となり、還付金を請求して受取つていることが、それらの文面の記載、記号等によつてほぼ確かめられ、

更に、

(証拠略)により、右の如くいずれも三月以上保険料不払のため失効となつたことがより一層明らかとなつた。而も、

前示証人白土五郎吉に対する尋問調書によれば、判示摘示(3) の昭和三二年一一月一九日契約申込による保険料毎月四百五十円、保険金額五万円の一口は、同証人が石津明美の保険料月額二百八十五円の支払が滞り勝ちであつたため、その催促に訪問した際、石津むめの方から石橋熊五郎を被保険者として右の保険加入方を申込まれたものであることが認められ、且つ前記五口の保険料は前掲各保険契約申込書の記載により月額合計四千九百円に上ることが明らかであるから、既に契約申込のときから経済的に相当の無理をしながら保険をかけていたことが十分推定されるのに拘らず、この点につき、証人石津むめの受命裁判官に対する昭和四〇年一〇月七日施行尋問調書(記録第七分冊)によれば、電話を引いて貰わんがために郵便局の歓心を買おうとして該保険契約をした旨を供述し、被告人も亦弁護人の本人質問において、これと同様の趣旨をもつて答えている(昭和四一年九月二九日第二七回公判期日における被告人の供述・記録第一〇分冊)が、判示冒頭事実についての前掲記の各証拠によつて明らかなとおり当時被告人一家の経済は少くとも決して楽なものでなかつたことが認められるので、これにより、被告人は経済を無理してまでも見栄を張り、急速に物質生活を向上せしめようと焦つていたことが十分推断される。

(一) 而して判示摘示のとおり、前記五口の保険がかけられていることは全部被保険者たる石橋熊五郎或は石橋トメの全く知らなかつたところであることは、前掲記の証人藤代豊寿、同根本均、同白土五郎吉、同石津むめの受命裁判官に対する尋問調書及び昭和三九年四月一六日第五回公判調書の被告人の供述記載及び昭和四一年一〇月一日第二八回公判期日における被告人の供述によつて明らかであり、更に被告人がその事情を知悉していたことも右被告人の同供述自体によつて明白である。以上一連の事実は、石橋熊五郎夫婦が死亡した場合、郵便局員側の者で漏らさない限りは、昭和三四年当時としては相当の大金である六〇万円を、同夫婦の他の親戚や世間からは秘密にして、投機的に全部利得し得るものと被告人が心中密かに考えていたものと判断し得られるところであり、従つて又本件犯行の動機目的たり得る事実である。

(三) 次に、前掲記冒頭事実についての被告人の悪性について挙示した各証拠中、特に、証人石津明美に対する受命裁判官の昭和四〇年七月八日施行尋問調書によれば、被告人に取つては義理の娘である明美が被告人のため暴力により貞操を奪われんとしたことがあるのみならず、被告人が賭博で負けて借金したため、その金を明美から直接借りようとした事実まであることが認められ、更に尚、昭和三九年七月二四日第一〇回公判期日における証人石津むめの供述を録取した同公判調書(記録第三分冊)によればむめが証人として被告人に相当不利となるべき事実の存在を証言したのに対し、被告人が執拗に反対尋問を繰り返すところから、ついに我慢ができず、被告人の悪性を明らかにする証拠として最も重大な内容を有すると思われる次の言葉を発した。即ち、「何も聞かなくたつていいでしよう。明美が学校へ入つたときも、ああいうことが起きて今度はお店を持てば持つたでこういうことになつて、子供の一生を棒にふつた、私たちはあんたがやつたかやんないかわからないけれど、なんでこんなに苦しめなけりやならないの。私が言つたでしよう。あんた真実は、一つしかないんだ。何かのかたちで、それを表わしてくれと、それを表わすことができなかつたら、死んでくれと、あんたに頼んだでしよう」。さきに挙示した各証拠が物語る被告人の悪性と、むめの右の発言の内容たる被告人の重大な悪性を示す事実、並に、かかる内容の発言をせざるを得ないまでに反対尋問の名の下に執拗に迫つた被告人の言動とに徴して被告人が人並外れた程、金銭に対する執着心が強く、そして生活の向上にあせつて居り、而も判示第一摘示のような凶暴破廉恥な行動に出でかねない性格と気性の持主であることが洵に明らかに認識されるのである。

(四) 判示摘示の如く、石橋トメの被告人に対する悪口等に被告人が憤慨していたことは、前掲記証人石橋トメの昭和三九年七月二三日第九回公判期日における証言を録取した同公判調書、同証人石津明美に対する受命裁判官の昭和四〇年七月八日施行尋問調書及び被告人の昭和四一年一〇月一日第二八回公判期日における供述を綜合して、明らかに認めることができる。尤も、明美はトメの悪口を聞いたが被告人にも母のむめにも話してない旨供述しているが、これに反し被告人はトメの悪口を明美からハワイ屋事件前において聞いていた旨供述している。しかしこれを聞いても別に問題にはしていなかつたと弁解している。けれども明美は前叙の如く被告人とは極めてデリケートな関係に立つている者であつて、被告人に不利な事実を供述するには相当の勇気が要ることが裕に窺われ、明美は前叙のとおり、かかる悪口を被告人やむめに話したことはない旨供述しているが、被告人はこれを明美からハワイ屋事件前に聞いていたと述べているのであつて、この点は被告人の供述の方が信用されるべきである。次に被告人は、この悪口を聞いてはいたが別に問題にはしていなかつた旨弁解しているが、これは前叙の如く明らかな被告人の日頃の凶暴的な気性からして、到底措信し難く、かくの如き悪口を聞いた被告人が通常人以上に憤慨したことは容易に首肯し得るところである。

(2)  判示摘示の犯罪の実行行為と被告人との結び付きは、次の各証拠を綜合判断した結果、明らかに認めることができたのである。

即ち、

(一) 被告人は判示犯行の行われた翌日密かに最も重大な証拠物件を湮滅したものと疑われるに十分な行動をしている。証人石津むめの昭和三九年七月二四日第一〇回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第三分冊)及び被告人の昭和四一年九月二九日第二七回公判期日並に同年一〇月一日第二八回公判期日における各供述(記録第一〇分冊)を綜合すると、判示犯行の行われた当夜午後九時三〇分頃外出先から自宅に帰つた被告人は、自分の着ていたオープンシヤツに血の着いたのを家人のむすめや明美にも言わず、家に上る前に、洗濯物をつけてあるものの中に入れて置き、その下に着ていたアンダーシヤツには血が着いているとは気付かず、部屋に入つたところ、むめにアンダーシャツにも血が着いていることを指摘され、これを脱いで押入れの中に入れて置いたが、同夜の中それから間もなく、石橋熊五郎夫婦のところに強盗が入つて両名は怪我をし、病院に入院した旨を他人が知らせに来、翌朝むめが石橋夫婦の見舞に出かけた留守中に密かに右のシヤツ二枚を細かに切り、これを自宅便所内に投棄してしまつた旨供述し、被告人の昭和三八年一一月一三日付司法警察員に対する供述調書ではオープンシヤツ一枚を自宅附近の利根川に石をつけて投げ捨てたとあり、これに相当するが如き、右投げ捨てられたシヤツを目撃したと称する証人(安藤伸芳に対する受命裁判官の尋問調書)も取調べられているので、或はそのとおりが真実であるかも知れないが、要は何故被告人がかかる重大な証拠物件を湮滅したかと言うところに問題がある。この点につき、前示第二八回公判期日においては、被告人は、ハワイ屋事件の犯人と疑われては困ると思つてしまつたものであると弁解しているが、かかる弁解は、後日被告人の右の如き行動が警察当局の知るところとなれば、それこそ却つて最も不利な証拠とされる位のことは普通人の常識とするところであり、既に明らかになつている被告人の悪賢い性格に徴しても、到底措信し得ないところである。ここに、証人大内朝吉の昭和四一年三月二四日第二二回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第八分冊)によれば、ハワイ屋事件の発生から四年もたつた後に至つて漸く警察が石津むめを取調べたことにより、前示の如き被告人の異常なる行動や被告人のシヤツに血の着いていたことが分つたのであつて、同事件発生当初において警察当局がそこまで取調べを完了しなかつたため、かかる重大な証拠の発見がおくれた経緯が供述されていることを参考に指摘して置く。

(二) 尚、被告人の当夜着用していたズボンに血らしきものが着いていたのを明美が見ており(第一四回公判調書及び前掲記証人石津明美に対する尋問調書中の石津明美の供述記載)。

(三) ハワイ屋事件直後頃に被告人が常にかけている眼鏡のつるを直しているのを明美が見て居り(前掲記尋問調書)、前掲記の石橋熊五郎及び石橋トメの各供述を録取した調書によれば、犯人は眼鏡をかけていた旨が供述されている。而して、被告人も、眼鏡がハワイ屋事件直後頃壊われたので自分で修理したことがある旨を前掲記第二八回公判期日において供述している。

(四) 前掲記石橋熊五郎及び石橋トメの各供述を録取した調書上では、犯人が用いた凶器は棍棒であるとされている。ところが証人石津明美は、昭和三九年一二月一〇日第一四回公判期日の公判調書(記録第四分冊)によれば、明美は、ハワイ屋事件の直後頃、被告人方の押入の奥の方に棍棒が一本、探さないと見えないような状態に置かれてあつたのを不図目撃したことがあり、その上、それには油じみた黒つぽいしみが着いていた旨を供述している。被告人も、第二八回公判期日においては、ハワイ屋事件前に自分が棍棒一本を作つて持つていた、それは明美の証言した棍棒ではあるが、明美の証言するように押入の奥に隠して置いたものではなく、その後、石橋康雄の毒殺事件が起きて、間もなく警察から家宅捜索を受けたことがあつたが、その時もその棍棒は自宅に在つた旨を述べて弁解している。しかし、前掲記昭和四〇年七月八日証人石津明美に対する受命裁判官の尋問調書によると、被告人は右弁解に相当する答えを為さしめんとして、明美に反対尋問を試みているが、明美は家宅捜索のときには自分が前に押入の中で見た棍棒はなかつた旨を述べ、その他は前の証言を維持していたのである。

(五) 被告人の不在証明及び着用のシヤツに血の着いた原因がハワイ屋事件以外の事実即ち他人の喧嘩を仲裁したことであるとする被告人の弁解は、証拠上全く認めることができない。被告人の第二八回公判期日における供述では、ハワイ屋事件の犯人と疑われては困るから、血の着いたシヤツを破棄してしまつた旨述べながら、当時であつたら少くとも自己の着用せるシヤツに血のついた原因を弁解の如く立証する証人等を確保し、後日若し疑いをかけられたときには容易に不在証明等の資料とすることができた筈だと思われる事情にあつたと認められるに拘らず、被告人がかかる証拠を探そうと試みた形跡すらなく、又、一方、当夜の被告人の帰宅時間の早いことは不在証明の資料となる訳であるが、これも、石橋熊五郎方に犯人が入つたのは午後八時三〇分頃から九時頃までの間と見るべきことが前掲記証人石橋熊五郎、同石橋トメの各調書によつて認められ、証人石津むめが前掲記第一〇回公判期日においてこの点問い詰められているが、被告人の帰宅時刻は午後九時三〇分頃ということにむめの証言も固つていると認められるので、被告人の目的は達成されていない。更に一件記録を精査しても、被告人の不在証明を立証するものもなく、又被告人側から着用シヤツに血のついた原因を立証しようとする請求もない。

(六) 被害者石橋トメは、終始一貫、犯人は被告人に相違ない旨証言していることは、一件記録に徴して明白である。従つて問題はトメの証言に嘘があるか、或は勘違い、見損ない等の過誤があるかである。弁護人の指摘する同証言の欠点として、弁護人が主尋問としてトメを証人に申請して尋問を行つた際、同証人が、当夜月の出ていないのに拘らず月が出ていた旨証言し、従つて犯人の顔を屋外においても月の光でよく見得たるが如き趣旨の供述をした点をもつて明らかに偽証であると追及弁論している。調書上形の上では一応そのとおりになつているが、しかし、これをもつて、同証人が悪意でことさら虚言を述べたものとは考えられない。証人の中には、自己の確信するところを何回も疑いの目をもつて問い詰められると、つい我知らず、不確実なことまで確実であつたように答えてしまう例の多いことは、経験事実の中で多く見受けられるところであつて、同証人の右の如き事実に相異した供述も或はその例にもれないものであるかも知れないからである。又、被害当時の状況に関する同証人の供述は、実況見分調書、検証調書における各指示説明、何回もの証人尋問等を通じて、微細な点は別として、大筋の点は少しも変つていない。犯人から棍棒で頭を叩かれる際等、被害を受ける最中に犯人の顔を見、体格を見、声を聞いたと云う根本の供述は、同じ被害者たる石橋熊五郎の前掲記の供述に照らしても矛盾はなく、該供述に虚言や誇張があるとは考えられない。しかし、同証人が犯人の顔等を見た際の明りは、そんなに明るい電灯の光の射すところではなく、而も、犯人を見たのは初めてであり、その前に被告人を一度も見たことがないことは、一件記録中の全証拠上明らかであるので、そのままの同証人の経験だけをもつてして、当夜の犯人が被告人であると断定することの軽率であることは明白であろう。而も石橋熊五郎は犯人が自分に対しては顔をそむけていたためよく顔を見られなかつたと述べているのである。更に証人トメの供述を録取した前掲記の公判調書を検討すると、同証人は、他人から犯人は被告人であるかも知れないと云われ、それとなく被告人に面接してよく見た揚句、被害当時、最初犯人を一寸見た感じでは若い人のようであつたが、尚よく見たら案外年喰いで額が禿げ上つていたし、又でつ尻でもあつたこと等が、その後見た被告人と極めてよく似ていると思うようになり、声は犯人はわざと作り声を出していたのでその点では分らないが、「なんだかんだ言いやがつてこの婆くたばれ」と犯人が怒鳴つたところからして、被告人が証人から窓口を言われていたことを根に持つてやつたに違いあるまいと考えるに至り、ついに犯人は被告人に相違ないと確信するに至つたものと考えられるのである。しかし、一面、同証人は被告人を憎んでいたか、少くとも大いに反感を抱いていたか、いずれにしても被告人に対し常日頃から好感を持つていなかつたことは、同証人の証言ぶりからも十分窺われるところなので、証言の表わし方において、多少の誇張や、感情の激する余りから出た思慮の不足した供述が混在しているものと見るべきであるから、同証人の犯人を自分の目で見た、而して後に被告人を見て比べた結果、犯人は絶対に被告人に間違いないと確信するに至つた旨の証言は、客観的な証拠価値としては、かなり割引いて評価されるべきではあるが、さりとて、同証人がその点故意に偽証しているものとは到底考えられないので、その信用度は相対的なものとして尚価値を有するものと認むべきである。

(七) 尚一件記録中には、石橋熊五郎方邸内に、当夜痕跡を残したと思われる自転車の車輪のタイヤ痕があり、それが鑑定の結果、被告人方にある明美の乗用する自転車の車輪のタイヤ痕と同種類であり、被告人自身も当日明美の自転車に乗つて銚子に映画見物にでかけ夜おそく帰宅した旨を述べている。即ち、昭和三八年一一月一四日付、茨城県警察本部刑事部鑑識課警察主事中田美代志作成に係る鑑定書(記録第二分冊)証人滝田幸の昭和三九年七月二四日第一〇回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第三分冊)、昭和三四年六月四日付司法警察員作成に係る石橋熊五郎方及びその附近の実況見分調書(記録第三分冊)並に被告人の前掲記第二七回公判期日における供述によつて、叙上の証拠の存在が明らかである。

(八) 尚被告人は、昭和三九年四月一六日第五回公判調書に録取した被告人の供述(記録第一分冊)、第二七回及び第二八回各公判期日における同供述によると、石橋熊五郎の家は、ハワイ屋事件前は、その家の前を、水戸方面に行くバスで通過するので、一度、そのバスで同乗していたむめからあすこが石橋熊五郎の家であると教えられたことはあるが、そのとき余りよく見て居なかつたので、同家が何処に在るのか知らなかつた旨を述べもつて本件犯行否認の一つの弁解としているので、一言これについて述べて置く。かような弁解が、それ自体として、容易に措信し難いものであることは、別段の証拠を要せずして明らかであるばかりか、当時むめと同棲して満二年近くもたつていた被告人にとつて、同じ波崎町に在る石橋熊五郎の家を探し出す位のことは極めて容易なことであつたことも亦明瞭に考えられるところである。

更に、被告人は、最終陳述において、自己に不利な証言をしている石津むめ、石津明美の供述を反駁するにつき、極めて低劣な人身攻撃を用いているが、却つて被告人の悪性を自ら立証するものであつて、何の価値も認められないことを附言して置く。要之、ハワイ屋事件は、証拠中、被告人が最も重要な証拠物件を自ら密かに破棄湮滅したものと疑わしむるに足る異常な行動を敢えてした点を中心として、叙上の各証拠を綜合した結果、たとえ被告人の自白はなくとも、被告人をもつて犯人と断ずる以外に考えようがないとの判断に到達した訳である。

ただ、この事件の事実認定として、最後に附加せねばならぬことは、検察官の主張する公訴事実の一部には、被告人は石橋夫婦を殺害後、同家に放火して証拠を湮滅する目的を有していたものであるとの点があるのであるが、これについては証拠が薄弱であつて、これを認むるに足る確証がないから事実として認定はしなかつたことである。

第三、判示第二及び第三事実については、第二事実中三浦金竜が情を知らないで文書偽造等に関与したとの点を争い、同人は情を知つていたものであるとする外は、全部被告人の自白するところであるので、いずれも次のとおり証拠の標目のみを挙示するに止める。

即ち、(証拠略)

第四、判示第四事実については、判示石橋康雄が、判示昭和三八年八月二五日の当夜、被告人から被告人の乗用自動車を借りて自ら運転して帰宅した後に青酸中毒症状を起こし、判示日時と場所において同中毒に因つて死亡した事実、並に判示の如き関係から被告人が康雄と親しくなつたこと、当初被告人が判示のとおりの保険をかけたこと、死亡した前夜被告人方において康雄が相当興奮していた事実等については、被告人において、争わないか、或は自ら進んで認めているところであるので、これ等の事実についての証拠は、その標目を挙示するに止め、判示の如き目的と計画の下に被告人が判示犯行を犯した者であるとの点については、被告人は、捜査以来否認し続け、特に康雄は他殺ではなく自殺であると思う旨弁解に勉め、その根拠として、康雄が被告人方から当夜最後に退去した時間は判示摘示よりもつと早く、死亡前日の午後一一時四二、三分頃であり、従つて康雄は、自宅に帰る途中他に立寄つたとは思われないが、自宅に戻つてから相当長い間自宅に居つて、その間に自ら青酸化合物を飲用して自殺したものと思われる旨、或は保険は一応自分が締結したが康雄の死亡前に会社の方で却下となり、自分も解約したものである旨等弁疏しているから、かかる弁疏の行われている点まで入れて、その関係部分の証拠は、一応証拠の標目として挙示して置き、次に被告人の否認乃至主なる具体的な各弁疏が排斥され、被告人が判示犯行を犯した真犯人と認めざるべからざる証拠の内容を説示することとする。

即ち、

(1)  (証拠の標目)<省略>

(2)  判示第四事実摘示の犯行と被告人との結び付きについて、以下、被告人の主なる弁疏の措信し難き理由と共に、積極的に被告人の犯行と考えるしか道がないと判断される証拠を説示する。

(一) 石橋康雄が最後に被告人の自宅から退去する直前において、被告人は、康雄が相当興奮しているところからして、同人に、鎮静剤を飲んで寝ろとか、或は鎮静剤の効用をも有するアスピリンを飲んで眠れとか云う趣旨のことを云つた事実があるかないか、若しあるとすれば、この際に被告人が青酸化合物を正常な薬品と詐つて、康雄に飲ませることができた機会があつたと云うことになり、従つて被告人に取つては更に最も不利な事実を追及されるかどうかと云うことになる筋合なのであるが、この点について、先ず被告人の供述の経過を検討して見ると、最初の事情聴取に過ぎなかつたと思われる、被告人の司法警察員に対する昭和三八年八月二六日付供述調書においてはアスピリンでも飲んで寝ろと云つてやつた旨の供述記載があるが、昭和三八年一一月一〇日付同供調書に至つては、その一八に、「康雄が私方を帰るとき水道の蛇口から水をのんだのは一口か二口位であつたと思つておりますが私は康雄に向つて、アスピリンを二つ三つ帰つてのめばよく寝られると申したのは事実でありますが、私が康雄を殺そうとして薬(毒物)を呑ました事はありません」と毒薬を飲ましたことを否認した旨の供述が記載されて居り、同じく検察官に対する昭和三八年一一月一八日付の供述調書中にも、「問 康雄が帰る時アスピリンの話をしなかつたか 答 康雄がねむれないと云つたので鎮静剤を二つ三つのんでねろと云いました」とあり、更に同じく同年同月二六日付検察官に対する供述調書中にも、「問 康雄が睡れないと云う話をしなかつたか 答 オートバイの事で癪に障つて睡られそうにないと云いましたので鎮静剤があつたら家に帰つて二つか三つ飲めと云いました」と記載されているが、毒殺は否認している(以上いずれも記録第九分冊)。然るに、証人石津むめの昭和三九年四月一六日第五回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第一分冊)を検討すると、むめは、最後に被告人と康雄と話し合つている内容を自分が隣の寝室で横になつているときに、唐紙越しに聞いたのであるが、自分の記憶にあるものの中、「康雄がくさくさして眠れない」と言うと、被告人が、「アスピリン二、三錠飲めば癒る」と言つたことがある旨を二回に亘つて証言したのに対し、被告人は自ら反対尋問に立つて、「私は二十五日の当夜、康雄に対し『アスピリン二、三錠飲めば癒る』と言う事を言つた事はないのであるがどうか。」と質問し、むめが尚も「私はその様に聞きました、冨山は『アスピリン二、三錠飲めばよく眠れるよ』と言つたのです」と前言を維持したのに対し、被告人は更に又「それは証人は刑事の口から聞いたのではないか」と追撃したのであるが、むめは「私は冨山から聞きました」と同じ答えをしている。ところが、その後、昭和四一年九月二九日第二七回公判期日(記録第一〇分冊)において、被告人は弁護人から「アスピリンを飲んで寝たらどうだというようなことは言いませんでしたか」と質問され、「それはオートバイの話があつて、土間へ降りてから、オートバイのことで、腹が立つてしようがないということを言つてたわけです、それで、そんなことでおこらないで、あしたは、決まりつけてやるからいいんじやないか、何か薬でもあつたら飲んで寝ろよと言つたわけです、だけど私の家で薬をやつたことは全然ありません」と答え、更に「アスピリンと言つたんですか」と聞かれ、「アスピリンというんじやなく、鎮静剤でもあつたら飲めと言つたんです、そしたら、そんなもの俺げにあんめよと言つたんで、アスピリンでも何でもいいんだぞということは言つたんです」と答え、更に昭和四一年一〇月一日第二八回公判期日においては、この点につき裁判長から質問され、前回同様の答えをなし、特に「アスピリンでもいいんだぞつて私が言いました」と述べ、「又そう云つたのはアスピリンも鎮静剤にきくということを知つていたから私が言つたのだ」との趣旨を答え、最後には、「アスピリンの二つか三つも飲んでおけば鎮静剤と同じ位きくと云うことを言いました」と述べ、一体何のために石津むめの証言を反駁追撃したのか分らないことになつたのである。しかして尚、同公判期日において、被告人は、アスピリンも他の鎮静剤もなかつたが、あればやつたかも知れませんなる旨を述べたのであるが、次の公判の昭和四一年一〇月二七日第二九回公判期日において検察官より証拠として提出された、前掲記の証拠の一つたる、司法警察員作成に係る昭和三八年八月二八日付被告人方居宅を捜索した際、被告人から薬品の任意提出を受けた旨の報告書、同年同月同日付被告人作成の任意提出書及び司法警察員作成の領置調書並にアスピリン錠入り容器一個(昭和三九年押第七号の二三)とを綜合検討すると、その被告人から任意提出された薬品の中にはアスピリン七錠入りの容器一個が現存し、その表紙には適応症として鎮静剤と印刷されて居る。然るに同公判期日に、被告人は、このアスピリン錠が当時自分の家に在つたものであることは認めたが、康雄にはこのアスピリンのあることに気付かなかつたのでやらなかつたとの趣旨を供述したのである。しかし、その前回の公判期日たる第二八回公判期日において、被告人は、かつて一度、康雄にカプセル入りの薬品をやつたことがある旨を述べている。

以上一連の事実を綜合して考えるならば、何故被告人は公判の最初の頃においては、康雄にアスピリン二、三錠飲めばよく眠れるとの趣旨のことを言つたことはないと、石津むめに対して反対尋問で執拗に喰い下つたのであろうか。青酸化合物をカプセルに入れたものを、アスピリンを入れたように装つてこれを康雄に飲ませたために、極力否認したのか。仮りに、アスピリンのあるのに気付かなかつたのでこれを康雄にやらなかつたとする被告人の供述が本当であるとしても、他の薬をやつたのではないかとする疑いは頗る合理的なものとして残るからこそ、アスピリン云々のことを否定したのであるが、石津むめの証言が固いことを知つて、これを認めることに方針を変えたものと推断されるのである。ところが、前掲記長谷川淳作成の鑑定書及び同人の証言を録取した当裁判所の尋問調書によると、前掲記科学警察研究所作成の鑑定書による康雄の胃内容物の発光分光分析結果により痕跡のチタンが検出されて居り、酸化チタンが錠剤の糖衣加工に古くからしばしば使用されているところから、康雄は、ミネラル入りのビタミン剤の糖衣錠を飲んだと見る可能性もあり、又、乳白色のカプセルは酸化チタンをゼラチンに混じて製造し、薬剤の入つた市販のカプセルは大方硬カプセルであり、これならば素人でもそのカプセルに青酸化合物を入れることは決して困難でないから、康雄は、青酸化合物を入れた乳白色のカプセルを、ミネラル入りのビタミン剤の糖衣錠と共に飲んだと見る可能性があるとされている。これと照らし合せて考えるならば、被告人が、康雄に対し、アスピリン錠を二つ三つ飲めばよく眠れると云つたことを公判の途中で極力否定し去ろうとした異常な行為に敢えて出たことは、康雄に対し、ミネラル入りのビタミン剤を飲ませたり、更には青酸化合物を入れたカプセルまで飲ませた事実が、すぐそのあとに続いて存在しているためであると強く合理的に推断せしめるのである。

(二) 本件犯行当時被告人はカプセルを所持していたかどうかについては、被告人は、検察官に対する昭和三八年一一月三〇日付供述調書において、カプセル入りの薬品であるトリブラが、康雄の死んだ日以後二、三日まで被告人方に残つていた旨を供述し、司法警察員に対する昭和三八年一一月一〇日付供述調書においては、康雄が死んだ後二、三日たつた頃、妻むめが机の引出しからカプセル一箇見つけ出したのを飲んだことがある旨を供述しているがいずれも(記録第九分冊)、第二八回公判期日においては、康雄が来た最後の当夜には、自分の家にはカプセル入りの薬品はなかつた旨を述べている。しかし、証人石津むめの昭和三九年四月一六日第五回公判期日における証言を録取した同公判調書によると、康雄が死んだ二、三日後、家宅捜索を受けた際、被告人は、むめが引出しから見つけた白一色のカプセル入りの薬品一箇を、車酔いの薬だと言つて飲んでしまつた旨が証言されて居り、又、証人石津明美の昭和三九年四月二〇日第六回公判期日における証言を録取した同公判調書によると、明美は、康雄が死亡した前、半年位の間に、被告人の使つている六畳の机の引出しにカプセル入りの薬品を見たことがあり、康雄死亡後の八月二七日頃、石津むめが、座机の右袖下段にカプセル入りの薬一箇あつたのを発見したので、被告人に見せたら、被告人は、これはバスに酔つた時飲むといい薬だといつて飲んでしまつた旨を警察官に指示説明していた旨が証言されて居り、更に、同証人に対する昭和四〇年七月八日受命裁判官の尋問調書では、明美は、康雄の死亡した事件の起こる一月か二月位前に、被告人がカプセルに入つた薬を持つていたのを見たことがある、一つか二つではなくもつと沢山あつた、色はワラ半紙のような色で、一つ一つとまるような風になつていて、入つて直ぐの部屋の机の引出しに入つていた、それを被告人がなんとなくあけているのを見た旨が証言されている。被告人は、第二八回公判期日において、むめは事件の半月位前の話を混同しているのであつて、自分がむめの云うように警察から家宅捜索を受けた際、カプセルを飲んだようなことはないと供述している。しかし、前掲記昭和三八年八月二八日即ち家宅捜索を受けた日に、被告人が任意提出書に署名して警察に提出した書面の目録に記載された薬品名並にこれに相当する全薬品にはカプセル入りの薬品は一つも存在していない(第二九回公判調書参照)。検察官に述べた被告人の供述は任意になされたものでないとの反駁もなく、むめの証言を否定するに足る証拠もない。とすれば、康雄が被告人方にいた最後の晩に、被告人方にカプセル入りの薬品があつたものと認めるべきである。然るに、何故被告人はこれを強いて否認しようとするのであろうか。前叙の如く、前掲記の長谷川淳作成に係る鑑定書及び同証人の証言によれば、康雄が乳白色のカプセル入りの青酸化合物を飲んだ外、それと共に、ミネラル入りのビタミン剤の糖衣錠をも飲んだと見る可能性があるとされている。而して、前掲記石橋信子の証言によれば、「康雄は帰宅して二、三分後に苦しみ出したので、『酒を飲んだのか、父ちやん』と言うと、苦しそうに、『薬を飲まされた。箱屋だ』と言い、『薬はな二つ、あと一つ、飲まされた』『俺、箱屋にだまされた』と三、四回言つた。箱屋とは被告人のことを意味している」。と云うことであり、更に、石橋康雄と同信子との間に生まれた当時一〇才の娘、石橋美江子も、父康雄の断末魔の苦しみをその場で直接見聞し、康雄は倒れていながら「薬を飲まされたと言つた」又「父ちやんの薬を飲まされたという声で目を覚ました」旨を、昭和三九年三月二三日第四回公判期日において証言していることが、同公判調書(記録第一分冊)によつて明らかであり、尚、その後昭和三九年一二月五日、受命裁判官より証人尋問を受けた際においても、前回の証言を維持している(記録第四分冊、証人石橋美江子に対する受命裁判官の尋問調書)。この石橋親子の証言を覆すために被告人は康雄の死因は自殺である旨を捜査以来述べて弁解に勉めている(前掲記検察官に対する供述調書、同じく第二七回公判期日における供述、但しここでは康雄の死因は自分でも分らない旨を述べ、自殺説をあからさまには出していないが、最終陳述では強調力説している。)。しかし、これまで本件訴訟上現われた全証拠中、康雄が自殺せねばならなかつたと認むるに足る積極的な証拠は何もなく、特に、前叙の如く長谷川淳の鑑定によれば、康雄はカプセルに入れた青酸化合物を飲んだと見る可能性がある。そうだとすれば、自宅で自殺する者が何んで毒物をカプセルに入れて飲むのであろうか。被告人は、前掲記の検察官に対する供述調書によれば、康雄は賭博その他で金銭を浪費し、借財に困窮し、ついには家屋敷まで抵当に入れて金を借りねばならぬ破目に追いつめられたため自殺したものと思う旨を主張しているが、前掲記証人遠藤一の昭和四一年二月一〇日施行受命裁判官に対する尋問調書によれば、同証人は、弁護人の申請に係る者ではあるが、自分は博打を商売にしている関係上、康雄をよく知つているが、康雄には相当の借金はあるが、農業の方も精を出してやつていたし、自動車も内密で白タク稼ぎをやり、なかなか生活欲がたくましい男で、たとえ家屋敷を抵当に入れても、尚まだ多少の土地も残つて居るし、大体康雄と云う男は、売るものがみんななくなつてしまつたら死ぬかも知れないが、あるうちは自殺等する男ではないと思う旨の証言をしている。

然らば、他に、石橋信子やその娘美江子の証言を信用し難いとするに足る証拠があるかと云うに、石津むめ、同明美等が、信子は康雄の親を粗末にした人間であると聞いていると述べたり、信子は康雄の死亡前、被告人が康雄に六百万円の保険をかけていたことを知悉していたと思われる節のあることを証言し、暗に信子が康雄の自殺を隠しているかの如き口吻を示している(前掲記石津むめ、同明美の各証言を録取した調書及び明美の第六回公判期日における証言を録取した同公判調書)が、前者については全くこれを立証するものは提出されていない。後者についても、石橋信子の証言では、信子が康雄の急病のため医者に電話をかけようとして、近隣の野中やゑ方に行き、同女に訳を話した上、医者に電話をかけて貰つた外、同女が被告人方に電話して一体何を康雄に飲ませたのかとききたゞしたことはあるが、信子はその当時まだ被告人によつて康雄に大金の保険がかけられていることは知らなかつたので左様な保険のことは全然言つていないことになるのであるが、石津むめ、明美は、野中やゑのかけて来た電話の中に、信子が被告人は康雄に人の知らない保険をかけて置いた旨を言つていたと証言するので、当裁判所は、野中やゑにこの点をたゞしたところ、同女は全く石津むめ等の証言と相反する供述をなし、その際信子から保険の話なぞ全く聞いたことはない旨を証言している(昭和四一年二月一〇日施行受命裁判官の証人野中やゑに対する尋問調書・記録第七分冊)。更に、石橋信子の野中やゑ方に行つた際の言動の中には、康雄を一時も早く病院に連れて行かねばとの一念に夢中になつていて、被告人のところで毒物を飲まされたと云うようなことを宣伝がましく言いふらしていた形跡は毫末も認められず、極めて自然発生的な言動であつたことが、前掲記野中やゑの第八回公判期日における証言を録取した公判調書によつて十分認められるので、この点からしても、信子の前叙の如き康雄の死の断末魔において言つた言葉を聞いた旨の証言は裕に信用するに足るものがある。然るに、被告人は最終陳述において、信子及び美江子の前叙の如き証言は、「伝聞体験証言」に過ぎない旨を述べて、その証拠価値を争つているが、かかる人の死の断末魔における苦悶と共に発した自然的衝動的な言葉は、それ自体所謂伝聞証拠でないことは明らかである。

然らば次に残る問題は、康雄が箱屋にだまされて薬を飲んだ旨を言つた、その「箱屋」とは何人を指すかであるが、これは、前掲記石津むめの証言により、「箱屋」とは世間の人が一般に被告人方を呼ぶ名称であることは明らかであるばかりか、被告人も亦、前掲記第二八回公判期日において、康雄は被告人のことを「箱屋のちやん」と呼んでいた旨を供述しているので、康雄が、死の断末魔において、自分をだまして毒薬を飲ました犯人は、被告人である旨を妻信子に言い遺した言葉は、最早毫末も疑いを容れる余地のない厳粛な事実であることが明らかである。しかし尚万一、康雄が何か間違えて犯人を被告人だと云つたのか、或はわざと嘘を云つたのかと云う最後の疑問が残る訳であるが、かかる疑問を容れるに足る証拠は全く存していない。ただ、被告人は、前掲記石津むめの証人尋問に際して、野中やゑから電話が来たとき、自分はやゑから、康雄はお宅で酒を飲んだそうだがと云つていた筈だがそれを聞いていないかとむめに対して質問をしている。そしてむめは、そんなことは聞いていない旨答えている(第五回公判期日における証人石津むめの供述を録取した同公判調書・記録第一分冊)。更に被告人は、石津明美に対しても同様のことを質問しているが、明美はここで「はい」とのみ答えている(第六回公判期日における証人石津明美の証言を録取した同公判調書・記録第一分冊)。しかし、昭和四〇年七月八日における受命裁判官の尋問に対しては、酒を飲んだかどうか分らない旨答えている(前掲記同日施行証人石津明美に対する受命裁判官の尋問調書)。その他康雄が八日二五日の当日酒を飲んだと認めるに足る証拠は何もない。第八回公判調書中の証人野中やゑの証言の中には、証人が康雄が酒でも飲んだのかと推測して、被告人方に電話する際に左様なことを云つたことはあるが、それは証人の推測から出たことであつて、石橋信子から聞いた訳ではない旨の証言がある。尚被告人は、最終陳述で、康雄は当時精神に異状を来たしていたと思われる旨を主張しているが、本件に現われた全証拠を検討しても、康雄の精神状態に異状なものがあつたと疑わしむるに足る証拠は全く存しない。

然らば、康雄毒殺の真犯人は被告人以外の者であると考えることは最早不可能になつたと云えるであろう。而して、尚次に問題となるのは、康雄が青酸化合物を飲まされた場所は何処かであるが、本件で証拠として採用されているポリグラフ検査書に俟つまでもなく、判示被告人方の土間であると見ることが十分可能であるが、これを助ける証拠としては、証人石津むめが証言するところによると、事件当夜被告人が土間の手前の六畳の座敷を行つたり来たりして、何か引出しから物を出しているような様子は感じなかつたかとの質問に対して、それはなかつた旨を答えている点がある(前掲記第五回公判期日における証人石津むめの証言を録取した同公判調書)。しかしながら、被告人は尚各種の具体的な主張をして、康雄毒殺の目的も動機もなく、康雄は自殺したものと思う旨を強く弁解していることは、弁護人の弁論からも窺えるところなので、以下これ等の主張弁解が成立しないものと認むべき証拠を説示する。

(三) 被告人及び弁護人のいう如く、最後に康雄が被告人方にいた時間は十二、三分の短時間であつたとしても(尚被告人の司法警察員に対する昭和三八年一一月一〇日付供述調書参照)、第一に、前々から被告人が判示の如き康雄毒殺の方法を計画して居つたとするならば、市販の薬品入りのカプセルに青酸化合物を入れることが素人でもできることは、前叙の長谷川淳作成の鑑定書及び同証人の証言に徴して十分明らかなところであり、更に被告人は重田義信に対し、薬品等を混合してジュースのようなものを自分で作つて与えたことがある(昭和三九年七月二三日第九回公判期日における証人重田義信の証言を録取した同公判調書・記録第二分冊)のであるから、康雄が帰宅せんとする最後に間に合うように、市販のカプセル入りの薬品を使つて、(青酸化合物は猛毒であるから極少量で致死量に達することは常識としても一般に知られているところでもあり、現に前掲記東大教授上野正吉作成の鑑定書及び同証人の証言を録取した尋問調書によつても、康雄の場合、体内に入つた青酸化合物の量は致死量を超えてはいるが比較的少量であつたことが認められる)、これに青酸化合物を入れたものを一箇作つて置けばよいのであるから、若し、その間むめ及び明美が同室していたために、その詰め替えができなかつたとしても、時間の点ではそんなに長く時間を要するものとは考えられないし、八月二五日の当夜、被告人には家族にも誰にも気付かれないで右の準備ができた筈だと言える事実がある。それは、被告人は、当夜午後八時三〇分頃康雄が八日市場に出かけたが、帰りには必ず被告人方宅に立寄るものと思い、表戸の鍵もかけて置かず、康雄の帰るまで外出もせず、休んで居り、康雄が当夜被告人方に帰つて来たのは午後一一時三〇分頃で、従つてその間は三時間位の長時間であり(被告人の司法警察員に対する昭和三八年八月二六日付供述調書(記録第九分冊)第二八回公判期日における被告人の供述(記録第一〇分冊)、証人高浜尚司の昭和四〇年一月二五日第一六回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第四分冊)、その間において、被告人に、誰にも気付かれずに、青酸化合物を入れたカプセルを一箇作つて置く時間と余裕のあつたことが十分推断できるからである。されば、最後に康雄のいた時間が短くても、別に引出し等を探すまでもなく、かりにポケットにひそませて置いた青酸化合物入りのカプセルを取り出すだけで、事は簡単にできると考えられるのである。ただ、この点被告人の自白は固より存しないのではあるが、叙上の各証拠の綜合によつてかく推断することは決して非合理的なものではない。

(四) 被告人には、康雄が最後に被告人方にいた時間は短く、同人が自宅に帰つて発病するまでの時間が長かつたことを主張し、これをもつて康雄自殺説の裏付にしようとしている弁解があるのであるが、これ亦、前掲記長谷川淳作成の鑑定書では、カプセルが胃の中で溶解するまでの時間は、数分乃至三〇分程度であるとされて居り、更に同証人の証言によれば、日本薬局方のきめたカプセルの溶解時間が一〇分となつているのは、カプセルを三七度の温湯に保つて一〇分以内に溶けるように製造されることが規定されているに過ぎず、人間がこれを服用した場合、必ず一〇分以内において溶解し、従つてそれと共にカプセル内に入つている青酸化合物が中毒症状を起こすものとは限らず、カプセルが胃の周壁にくつついているような場合には、たとえ同時に水を飲んだとしても、その水の中にカプセルがすぐ入らないので、日本薬局方に合格したカプセルでも溶解するまでには尚相当の時間がかかり得る可能性があるとのことなのであるから、被告人の弁解は決して的を射たものにはならない。

しかして、康雄が被告人方を最後に退去した時刻は、被告人の云うが如くに早くはなく、翌日の午前零時一五分頃と見るべき証拠も次のとおりあるのである。

即ち、

(イ) 証人石津むめの昭和三九年四月一六日第五回公判期日における証言を録取した同公判調書によれば、むめの記憶では、康雄が最後に被告人方を辞去したのは一二時過ぎになつていた、又野中やゑから電話のかかつて来たのはそれから二〇分か三〇分位経つてからであると思う旨の証言がある。

(ロ) 証人石橋修、同酒井裕三郎に対する昭和四〇年三月一八日施行当裁判所の各尋問調書並に証人八馬茂に対する昭和四〇年二月二五日施行当裁判所の尋問調書及び同証人に対する同年六月一九日施行尋問調書(以上記録第五分冊)によれば、昭和三八年八月二六日午前零時一〇分頃に、被告人所有の乗用自動車で、当夜康雄が借りて運転した車が、まだ被告人方の前道路に置かれて在つたことが認められ、

(ハ) 前掲記の証拠中、司法警察員及び当裁判所において、判示被告人方から康雄方までの乗用自動車による走行時間を測定した実況見分調書、検証調書によると走行時間が、大体三分三九秒となつて居り、並に

(ニ) 当夜康雄が被告人方から最後に帰つた途中何処かに立寄つた形跡があるかないかについては、証人大内朝吉に対する昭和四〇年七月八日施行受命裁判官の尋問調書(記録第六分冊)により、警察当局が署員を大動員して、康雄の足取りを、被告人方から帰宅の途中通過する附近の二千軒以上の各戸に当つて調査せしめた結果、全然何処にも立寄つた形跡が認められなかつた旨が証言されて居り、以上の各証拠を綜合すると、康雄が被告人方を退去した時刻は翌日の二六日午前零時一〇分を過ぎた一五分頃であることが認められる。しかるに

(ホ) 前掲記証拠中、国民健康保険被保険者診療録謄本中に、康雄が帰宅してから発病するまでの時間は一〇分位かかつていた旨の記載があることをもつて、弁護人は、前掲記証人石橋信子の、発病したのは康雄が帰つてから二、三分後である旨の証言を疑わしいものとしているが、該謄本の記載をよく検討すると、康雄の帰宅した時刻は午後一二時過ぎで、且つ、発病までの時間は、数分乃至一〇分位と記載されて居り、その記載の根拠は、恐らく担当の医師が石橋信子か或はその近隣者で病院に同伴した者から聞いたところによるものと思われる。しかし心神顛倒している際における細かい所要時間の発言であるから、これを余り正確なものとして期待することは無理である。しかし又仮りに発病までの時間が一〇分位であつたとしても、必ずしもそれが被告人の利益な証拠となるものでないことは、既に叙上各証拠によつて明らかであり、

(ヘ) 更に、被告人も検察官に対し、康雄は夜中でもあるので途中何処へも寄らずに帰宅したものと思う旨を述べて居り(昭和三八年一一月二六日付被告人の検察官に対する供述調書・記録第九分冊)、而も、途中康雄が何処かに立寄つたと認むべき反証は全く出されていないのであるから、若し、右診療録謄本記載のとおり、当夜康雄の帰宅した時刻が午後一二時過ぎであるならば、被告人が一貫主張しているように、康雄の被告人方退去の時刻が午後一一時四二、三分頃であるとすれば、前掲記の自動車走行時間を考慮に入れると、康雄が帰宅した時刻は午後一一時四七、八分頃となり、右診療録謄本の午後一二時過ぎに帰宅した旨の記載とは大部合わなくなる。すると、この場合、被告人にとつて利益な帰宅後発病までの所要時間が一〇分位とする記載だけを証拠として主張し、帰宅時刻の記載については証拠価値がないとする、かなり勝手な立証と云うことにでもなるのであろうか。却つて、心神顛倒の際の発言ではあるが、常識上、康雄の帰宅した時刻についての記憶は、当時かなり正確に保たれていたと見るべきであろう。然らば、その帰宅時刻が午後一二時過ぎであつた旨の記載は、前叙の如く康雄退去の時刻が午前零時一五分頃であると認められるのであるから、この点よりしても正確性があるものと見るべきで、逆に被告人にとつて不利な証拠となる訳でもある。

(五) 本件証拠としては、被告人が青酸化合物を入手した経路を明らかにする直接証拠、或はこれを所持していたと認むべき積極的な直接証拠はない。しかし、かかる証拠のないことは本件を有罪と認定することについて、これを排斥するだけのものではない。これに関し本件に証拠として顕出されているものとしては、先ず、青酸化合物が決して素人でも入手困難なものではないことが明らかにされていることである(証人伊藤徳次郎に対する昭和四〇年六月一九日施行当裁判所の尋問調書・記録第五分冊)。次には、被告人の実家は被告人の亡父時代から車大工をやつていたが、そのことから、警察に、被告人の実家には青酸化合物があるのではないかとの疑いがかかり、同実家のことを知つている鍛治職の矢ノ倉利男が警察で調べられた際には、被告人の実家では青酸カリを取り扱つていた旨を供述したところ、証人として昭和四〇年七月八日受命裁判官の取調べを受けるに当つては、青酸カリは鍛治屋では鉄を焼く際に使うので、自分の家も当然使つているが、被告人の実家は単に車大工であるに過ぎないから、硼砂、硼酸は使うが青酸カリは使わない筈なので、警察で述べたのは誤りである旨証言したのではあるが、被告人が前掲記第二八回公判期日において述べたところによると、被告人は少年時代から二十才まで父の下で車大工の仕事をやつていたが、車大工の仕事は、かしの木を使つて荷車を作るのであるが、鉄の棒とか輪とかも、最初は鍛治屋に委せていたが、忙がしくてやつて貰えないことが続き、その後は自分が鉄を鍛錬してやつていたとのことであるが、被告人は、それでも被告人の実家では青酸カリを取り扱つていたとは供述しなかつた。しかしながら、証人矢ノ倉利男が鉄を焼くためには青酸カリが必要なのだと云う趣旨の証言をしているところから考えて見ると、被告人の右供述のとおり車大工の旁ら鍛治屋同様鉄類の鍛錬をやつていたことが事実であるとするならば、本件犯行に使用した青酸化合物は、被告人が鍛治屋と同様の仕事を実家において長い間やつていたことがあるとする被告人の自供に偽りがない限り、被告人は、全然素人の場合よりは、青酸化合物を入手する方便を持つていたとは言える訳である。現に、被告人は、それは青酸化合物ではなく、エチレングリコールであると説明はしているが(被告人の昭和三八年一一月一八日、一一月二六日各日付の検察官に対する各供述調書)、証人石津むめの昭和三九年四月一六日第五回公判期日における証言を録取した同公判調書によると、むめは、四、五年前(昭和三四、五年)に、四畳半の押入の中に、被告人の所有物である薬瓶のようなものが二本入れてあり、それは市販のアルコールビンと大体同じ大きさで、一本は茶色で、一本はハトロン紙に包んであつた、自分がこれを最後に見たのは、昭和三八年五月頃であつた、ところが康雄死亡後間もなく家宅捜索を受けた日には、その二本は無くなつて居つて、ワイパアの瓶で、ビール瓶を小さくした、前に見た瓶よりも細い茶色の瓶が一本置かれていたので、被告人にここにあつた薬瓶はどうしたのかときいたら、被告人は、そこにあつたのは最初からそれだけだとワイパアの瓶を指して言つていた旨が証言されている。被告人の前掲記検察官に対する供述調書によると、被告人は、その押入れに入れて置いた瓶は一本であつて、それはかなり古くからあつたが、三年程前に、内容物たるエチレングリコールをワイパアの瓶に詰め替えて置いたものである旨を説明している。しかし、証人石津むめは、前掲記公判期日において、家宅捜索のあつた日の二、三日後にはそのワイパアの瓶もなくなつていたので変に思つた旨を証言している(前掲記公判調書)。

然るに、被告人は、かように不利な情況証拠が現われているのに拘らず、被告人の云うところのエチレングリコールに過ぎなかつた、即ち、その内容物は青酸化合物ではなかつたことを、入手先を明らかにする等して、反証を挙げることは決して難事ではないと思われるのに、全くこの挙に出ていないのはどうしたことであろうか。これは正に異常な被告人の態度であつて、被告人を真犯人であると考えねばならぬ情況証拠の一つと云うべきである。

尚、被告人は、青酸カリを子供の頃、池の魚を取るために使用したことがあるので、青酸カリがどんな形でどんな色をしているか知つている旨を、検察官に対して供述している(被告人の昭和三八年一一月三〇日付検察官に対する供述調書)。

(六) 次には何故本件犯行にはカプセルが用いられたものと認むべきであるかを説示する。先ず、被告人は、第二七回及び第二八回各公判期日において、カプセルの効能を書いた薬の説明書を読み、カプセルの溶解時間が、三分ないし五分であることを知つていた、それはずつと古く、昭和二八年頃からである旨を述べて居るが、被告人方から康雄方までの自動車による所要時間は知らぬと答えている。尤も、康雄の死亡した一月前の七月頃に初めて一度康雄方に行つたことがあるが、自動車や自転車で行つたのではない旨を述べている。しかし、被告人は、自動車の運転免許を取り、普通乗用自動車を買つて乗つていたことは、被告人も明らかに認むるところであるが(被告人の検察官に対する昭和三八年一一月一日付供述調書、第二九回公判期日における被告人の供述・記録第九分冊)、前掲記証人野中やゑの証言中にも、康雄急病の知らせで駈けつけて来た被告人が、車で康雄を医者に乗せて行つてやろうと思つてと自動車の運転免許証まで示して言つていたことがある旨証言している。

更に又、証人石橋信子の第四回公判期日における証言を録取した同公判調書(記録第一分冊)によると、被告人は、昭和三八年三月、四月頃、ちよいちよい康雄方に来て、何か大騒ぎをしていたということである。被告人の康雄方に行つた回数が被告人の云う如くたつた一回だけであることは信じ難いが、仮りにそうだとしても、被告人方から康雄方までの自動車による所要時間が被告人に分らなかつたとは到底考えられない。前掲記のとおり、自動車走行の測定時間は四分弱であり、被告人が予め知つていたと供述するところのカプセルの溶解時間とは大体合致して居り、被告人方の土間において青酸化合物を康雄に飲ませ、同人が水道の水を飲み、(この点は前掲記証人石津むめも水道の出る音を聞いて居り、被告人も昭和三八年一一月二六日付検察官に対する供述調書の中で認め、第二七回公判期日においても同様認めている。しかし、被告人が一番最初に、警察から康雄の死亡前の事情について聴取された昭和三八年八月二六日付の司法警察員に対する供述調書中には、康雄に対して、前掲記のとおり、アスピリンの三つも飲んで寝ろとは言つたが、やつてはいないと云うことは供述しているが、康雄が帰宅しようと土間に出てから、そこに設けてある水道の水を飲んで行つたことは記載されていない)、康雄はそれから屋外に出て自動車を運転して帰宅した訳なのであるから、判示摘示の如く、康雄が自動車運転中、青酸化合物の中毒症状を起こして、同人の死亡を交通事故と偽装しようとするためには、青酸化合物をカプセルに入れて飲ませて、時間を稼ぐことが必要であつて、そうでなければ、前掲記の証人上野正吉及び長谷川淳の各証言にまつまでもなく、その場で即死する可能性の頗る強いことは、常識として一般世人の知るところであるのみならず、前叙のとおり、青酸化合物について経験を有し、特にこれを使つて池の魚を取つたことがあり、更にカプセルの効能を知悉している被告人としては、当然カプセルを利用したものと考えられるのである。

(七) 被告人は、康雄に判示のとおりの生命保険をかけたが、その後保険金受取人を誰にするかの問題で、会社からよこした使いの氏名不詳者によつて却下の通知を受け、又、自分からもこの保険加入手続を依頼した証人三浦金竜に対して、そんな面倒ならやめて欲しいと取消方を申込んだのであるから、康雄には生命保険はかかつていないものと思つていた旨を述べ、本件犯行に出すべき目的も動機もなかつたことを主張している(第二七回公判期日における被告人の供述)。しかし、前掲記の証人三浦金竜の証言、被告人の司法警察員に対する昭和三八年八月二七日付供述調書(記録第九分冊)、石橋康雄名義の生命保険契約申込書(昭和三九年押第七号の二)、浪川源太郎の司法警察員に対する供述調書等によつて、被告人の弁解が成立しないことは洵に明らかであるみならず、被告人が康雄の保険料と重田義信の保険料を併せて、額面一五万円の約束手形を三浦金竜に差入れて置きながら、これを三浦金竜が他から割引いて来て保険会社に現金で保険料を納付したのに拘らず、後日不渡としてしまつて、三浦金竜にそれだけの損害を加え、而もその手形は江幡虎吉から被告人が借りて来たものであることが証拠上明らかである(証人江幡虎吉の昭和四〇年一一月四日第一九回公判調書・記録第七分冊)。更に、又被告人は、本件保険をかけた理由は、康雄に対して数十万円の貸金があつたからこれを担保するためである旨を主張している(第二七回公判期日における被告人の供述)が、康雄死亡直後たる昭和三八年八月二七日に警察から事情聴取を受けた際には、保険会社の職員三浦金竜の成績をあげさせたいためにしたことであるとのみ供述し、貸金担保の目的があつた旨は述べられていない(被告人の昭和三八年八月二七日付司法警察員に対する供述調書・記録第九分冊)。前掲記の証人石橋信子、同石津むめ、同石津明美、同岡見信頴、同遠藤一等の証言内容を検討して見ても、数十万円と云う大金を康雄が被告人から借りていたとの証拠はなく、たゞ、第二八回公判期日において、被告人は、昭和三八年八月二八日に警察に対して任意提出した中に、石橋康雄名義の印鑑証明書一通及び同人の印鑑を白紙の上に押しただけの紙一枚が入つていて、それは、康雄死亡直前に康雄所有の山林等を買受け、尚三〇万円程の残金があるところからして、その借用証書を作るために康雄から貰つてあつたものである旨を述べている。しかしながら金融や不動産業をやつている前掲記の証人岡見信頴に対する昭和四一年二月一〇日施行受命裁判官の尋問調書によれば、証人岡見は、被告人から康雄に貸金があると云うことは康雄のいるところで被告人から屡々聞いていたが、金額は二、三〇万円で、その代りに康雄から土地を譲り受けたので、康雄に対する被告人の貸金はあつても大したものではないと思う旨を述べている。更に康雄が右二、三〇万円の貸金の弁済を土地をもつてするために、委任状を被告人に渡していた旨も供述している、ところからすると、康雄死亡当時に、同人に対する被告人の貸金があつたとしても大した金額のものではないものと認められる。

(八) 被告人は、第二七回公判期日において、康雄死亡前から、京成電鉄に土地を売り込み、三〇〇万円位の利益が上がる見込が十分あつたところ、自分が本件のため逮捕されてしまい、その目的を達成できなかつたことは実に残念であると強調して述べ、もつて本件犯行に出ずべき目的も動機もなかつたことを主張せんとしている。そして証拠としては、弁護人から申請された証人富田作松の証言であるが、同人に対する昭和四一年二月一〇日受命裁判官によつて調べられた際の尋問調書(記録第七分冊)によれば、大体の筋道は被告人の弁解に添うが如くであり、被告人が逮捕されたためこの売買の交渉が完全に駄目になつてしまつた旨を述べているけれども、その売り込むべき土地の所有者の氏名、住所が書類の上では判つていたと言いながら、被告人が逮捕されたからと云うだけのことで、何故売り込みの交渉を断念せざるを得なかつたのか頗る理解に苦しむところであり、故ににわかに同証言を全部そのまま措信することは到底できない。そして、被告人からはそれ以上の証拠の請求は何もなされていないのである。然らば、同証言をもつて本件犯行の目的動機の存しなかつた証拠としようとする被告人の目的は、到底達成されるべくもない。

(九) 尚、被告人が康雄急病の知らせを野中やゑから電話で受けるや、本来ならば康雄とは従姉の間柄にあるむめを少くとも連れて駈けつけるべきであるのに、被告人は、自分だけ一人で自転車に乗り、むめと明美は家に置いたまま、真先に野中やゑの家に行つて、康雄の急病の様子等を聞いたりしてから、自分一人だけ先に病院に行き、康雄の入れられている手術室に入つて、康雄の容態を見たり、医師からこれを聞いたりして、一旦家の方に戻り、途中から今度は明美と一緒に自転車で病院まで行き、再び手術室に入り、康雄の死顔を見て、おそくなつて家に帰つたが、むめはその前に明美が病院から帰つて来て康雄はもう駄目だと聞かされて、漸く病院に出かけている。むめをして左様にさせたのは結局被告人の指示があつたからである。以上一連の事実は、被告人が、明美を自分から病院に連れて行つたのではなく、明美の方から来たのだと述べている点を除いては、前掲証人石津むめの第一回証言を録取した公判調書の供述記載と被告人の第二七回及び第二八回各公判期日における供述とは概ね合致している。問題は、何故真先に行くべき筈のむめを一番最後にしてしまい、最初は自分一人だけで行動し、次には明美とだけ一緒に行つたかである。かかる行動は常識を外れた異常な行動と考えざるを得ない。康雄が期待したように自動車運転中に中毒症状を起こさず、帰宅してから起こしたことを知らされて、周章狼狽の上、先ず被告人一人だけで出かけ、青酸化合物その他重要証拠物件を密かに湮滅したものと推断できなくはない。現に被告人は、何故むめを真先に見舞に行かせなかつたかの点については、満足な答弁ができなかつた(第二八回公判期日における被告人の供述)。又、明美一人だけを伴つて行つたのは、恰も被告人と康雄が最後の会話をしている六畳の隅に寝ていた明美ならば、被告人が康雄に毒物を飲ませるところを見えたのではないかと考え、明美は本当にその間眠つていて何も知らなかつたか、これについて口裏を引き、若し見ていたとすれば口止めをしなければならぬと考え、そのために明美を伴つて行つたと見ることも亦決して過つた推理ではない、現に明美の供述やその態度から同女は、もつと真相を知つているのではないかと疑わしむるに足るものがある。前掲記の明美に対する受命裁判官の尋問調書中には、明美は、事件後被告人に薬を呑ませたことはないかときいたことはないかときかれ、「被告人は康雄が八日市場へ出掛ける前、家で氷飲ませたとか言つていただけだ」と述べたが、更に、薬を与えたことはあると云うのか、ないというのかときかれ、「その日はないと・・・・・」と後をにごし、あとであると言つたのかと重ねてきかれるとついに沈黙してしまつたことが録取されている。

要之、本件石橋康雄毒殺事件も亦、ハワイ屋事件と同様、被告人の自白はなく、毒物を飲ませるところを見聞した証人もなく、又毒物の入手先も、処分方法も不明ではあるが、叙上各証拠を綜合検討した結果、犯人は被告人以外の者であるとは、どうしても考えることができない、即ち、被告人が犯人に相違ないとの判断に到達したのである。

よつて、判示各事実は、証明十分である。

(法令の適用及び刑の量定等)

判示被告人の各所為を法令に照らすと、判示第一事実は、各被害者一名に対する所為につき、夫々刑法第一九九条、第二〇三条に該当し、同第二及び同第三事実は、夫々刑法第一五九条第一項、第一六一条第一項(第一五九条第一項)にあたり、他と共謀に係る第三事実については尚刑法第六〇条を適用すべく、各事実中、私文書偽造の所為と同行使の所為とは、互に手段結果の関係にあるので、刑法第五四条第一項後段の牽連一罪となり、同法第一〇条により犯情の重い偽造私文書行使罪の刑をもつて処断すべく、而して、判示第四事実は、刑法第一九九条に該当する。そこで、情状により、判示第一の各殺人未遂の罪については、夫々所定刑中有期懲役刑を選択し、以上の各罪は刑法第四五条前段の併合罪であるが、判示第四の殺人既遂の罪につき、その情状を慎重勘案すると、先ずその実行行為自体、洵に惨忍酷薄なること言語に絶するものがあり、その所期した目的は、所謂保険金目当の計画的毒殺であり、これを実行に移した動機についても、何等酌むべき情状は毫末もなく、被告人のために、俄かに夫を失つた被害者の妻の悲しみや、父を失つたあわれな遺児の悲運は勿論、特異にして稀有、而も惨虐無類の犯行として人心に及ぼした影響も重視せらるべきであり、更に、被害者は、内妻とは言え、共に長年同棲して暮らして来た妻の従弟に当るものであつて、これを惨忍目を蔽わしむる方法をもつて殺害した点の反倫理性も軽視せらるべきものではなく、尚、所期するところの目的の一つは、絶対に証拠を残さない、所謂完全犯罪を試みんとしたものとも見るべきであり、しかして被告人は、現在においても尚、寸毫も改悛の情を現わして居らず、その性格は冷酷にして残忍、自己のためには手段を選ばず、他人の意を介しない反社会性を有していることなどを綜合すれば、情状に酌むものがないので被告人に対する制裁としては、法の定むる極刑即ち死刑を選択するより外はないものと判断されるので、被告人には、判示第四の殺人罪につき、所定刑中死刑を選択する。よつて刑法第四六条第一項の規定により、他の判示各罪については、刑を科さないが、同条第一項但書により没収の刑はこれに附加することができるところ、判示第二並に第三各摘示に係る夫々の偽造生命保険契約申込書は、いずれも偽造私文書行使罪の組成物件であり、その偽造部分については何人の所有にも属しないことが明らかであるから、夫々刑法第一九条第一項第一号、第二項を適用して、没収することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文に従い、全部被告人の負担とする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 田上輝彦 君和田保蔵 荒井徳次郎)

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